実際にはだれも見ていないものが、どう行動したか….. これを調べるのは、名探偵の仕事である。素人の私達は、まちがえたり、騙されたりすることもあるだろう。
これを防ぐには、自分の頭の中で、落ち着いてじっくりと、1つ1つ確実に様子を思い浮かべ、最後にはその様子を映画に出来るくらい明確化する必要があるだろう。
犯人は、「分子」である。名探偵シャーロックホームズ並みにやってみよう。
===== 本編 =====
事件は注射器の中で起こった。四葉静氏が何気なく空気の入った注射器を手で握っていたら、ピストンが静かに上がったというのが事件の内容である。
「ホームズ、いくら暇でも、こんな事件と言えないものまで手掛ける気はないだろうね」
「たしかに事件とは言えないね。だが空気といった曖昧なものが主役を演じているし、少なくとも頭の訓練にはなりそうだ。まんざら興味がない訳では無いよ。ところで四葉静氏は、他に何か手掛かりになりそうなことを言わなかったかな」
「あとで気がついたそうだが、注射器の先にはゴムが付いていて塞がっていたそうだ。それに手を離しておいたら、しばらくして、またピストンは、元の位置まで下がったそうだ。」
「その二つのことは、どちらも空気が注射器の外に出なかったし、また外からも入って来なかったことを示してくれるね。だから、ぼくたちは注射器の中の空気だけ考えれば良いということだけは分かる」
そう言って彼は、振り向いた。
「おや、つまらなそうな顔をしているね。君はもう分かったのだろうから、お説を聞かせて貰いたいね、ワトソン」
「もちろん僕にも、犯人は注射器の中の空気だということはわかっている。しかも空気というやつは、酸素や窒素の他に空間というやつも含んでいるんだ。だから僕はこう考えるね。分子は大きさも重さも変わらないから、空間の大きさが膨らんで、ピストンを押し上げたと。この空間が押し上げたりする佐生のことを圧力といっているのさ。分子が押し上げたりすれば、力というわけだ」
「すばらしい、僕が探偵をしていなければ、君を天才だと思うだろう。だがワトソン、君の説には重大な欠点がある。空間ってやつは、重さもなければ、何もない。ただ空いているところだよ。その空間が、なぜピストンを動かせるのかな。宇宙空間でロケットは、まわりの大量の空間によって押しつぶされたりはしないよ、君。それにもし空間というものがあったとしても、増えた空間はどこから注射器の中に入ったのかね」
「空間というのものは、注射器のガラスくらい平気で通ってしまうのかもしれない。あるいは、自然に湧いてくるのかもしれない」
「そんなことを言うようでは、見込みがないね。第一、それでは手を離したら元に戻ることが説明できない。もっと良い考えがあるだろう。犯人が空間でないなら、残るは分子ということになる。注射器の外にある四葉氏の手の力は無視して良いだろう。手は単に注射器と空気を暖める役割しかしていないのだから。では分子はどう行動したのだろう」
「そうか分子は重さもあるし、まわりは空間だらけだから自由に動けて、ピストンに当たればブラウン運動で微粒子を運動させるように、ピストンだって動かせるね。だからピストンは酸素や窒素の分子が、ピストンを壊さない程度に当たったんだ」
「分子の動きを見ていない君が、分子の動きを言い当てるのだから大したものだね、ワトソン。まだ分からないところがあるかい」
「空間は結局変わらないのかね、ホームズ。それにピストンに働いているのは分子の当たる力であって、圧力ではないのだね」
「空間は明らかに増えているさ。全体の体積が増えているのだからね。何も入れなくても、空間ってやつは、増えも減りもするよ。空間は『ものではなくて、空いたところ』なのだからね。空きが増えたのさ。でも、でもこれは、ピストンを押し上げるには役に立たない。むしろ押し上げられたから、その分、空きが増えたというべきだろう。圧力の件だが、これも解決済みさ。たしかに1つ1つの分子が当たるのは力さ。だが、あの小さな分子が10や20当たったところで、ピストンを押し上げられるとは君も思わないだろう。何億、何兆という分子が一緒に当たるのだ。そうした全ての力を全体の働きとして見る時、圧力という言葉を使うのだよ」
「なるほど。でも、人の手で暖めるだけで分子ってやつは急に動き出すなんて、不思議な気もするね」
「『急に』ではないよ。ただ置いておいただけの時も、やつは動き回り、ピストンに当たっていたのさ。ただ、いつも同じ強さで当たっていたから気がつかなかっただけさ。そのことは、ふだんでもピストンは一番下まで下がらず、途中のどこかで釣り合っているのでも分かる。もし、いちばん下まで下げて体積をゼロにしたければ、もっと冷やさなければだめだ。この前、この方面の雑誌に、ケルビンという男がピストンを完全に下げて、体積も圧力もゼロにするには-273度にすればよいといったことが書かれていたようだ」
「では手で暖めるとピストンが押し上げられるのは、、分子がより強く当たったと考えるのかい」
「考えるどころではない。実際ぼく自身が見てはいないが、いろいろな証拠から確信を持って言えるね。『温度を上げると、分子の動くスピードが速くなる』と。さらに-273度になってようやく、分子は動かなくなるとも言えるね」
「これで問題は解決だね、ホームズ。いつもながらあざやかなものだね」
「ほんのちょっと常識を働かせるだけで済む問題だったよ、ワトソン。ぼくには頭の訓練にもならなかったね。途中で諦めたり、常識はずれなことを言わなければ、君や中学二年生でも解決できるさ。分子なんて、もったいぶって姿を我々の前に現わさないが、いつも動き回っていて、温度が上がるとスピードが増す以外、何の特色もない。ただの粒さ。ソファのバイオリンを取ってくれたまえ、ワトソン。退屈しのぎも満足に出来ないとは…..」
しばらくして四葉静氏から、感謝の言葉と、次のような質問が寄せられた。
「先日のことは注射器の中に空気を入れた場合でしたが、ふと気がついて、中に水を入れて試してみました。しかし今度は暖めても、ピストンは持ち上がりませんでした。ついでの時でけっこうですから、このこともお調べ下さい」
ホームズの返事は簡単なものであった。
「いろいろな証拠から、液体や固体では分子を自由には動かさない何かの力が働いていることを確信しています。ただし液体や固体でも、分子はなお動いているのでご注意を。今後は自分で解決されたし」
この注射器のピストンの件は、様子を映画にして説明することも出来るし、また実際の大きさの何億倍もの模型を作成することも出来る。
- Q.E.D. -